これまでバナナについていろいろ書いてきましたが、現在は安価な果物として気軽に食べられているものの、そうなるまでには幾多の出来事がありました。そうした経緯、バナナについて生き証人が語っているサイトがあり、大変興味深いですね。
そもそもバナナがどのようにして渡来したのかご存知ですか。
清水信次氏という、ライフストア代表取締役会長兼CEO、日本スーパーマーケット協会会長、社団法人全国スーパーマーケット協会名誉会長がインタビューに答えています。
日本に初めてバナナが入ってきたのは、明治36(1903)年のことです。 台湾から7籠(約70kg)のバナナが神戸港に到着したのが始まりです。 日清戦争(1894~1895年)後、台湾が日本に割譲されたことにより、 台湾バナナが「移入」されるようになったのです。 当時、台湾は日本の統治下にあったので、「輸入」ではなく「移入」という言い方をされました。 甘くておいしいバナナは瞬く間に日本人を魅了し、明治末期から昭和初期にかけて、 入荷量は年々増えていきました。戦前のピークとなった昭和12(1937)年の年間移入量は14万トン。 露天商による「バナナのたたき売り」があちこちで見られるようになりました。 明治から大正時代には高嶺の花だったバナナに一般の消費者の手が届くようになったのです。http://www.dole.co.jp/banana_history/leader/shimizu.html
以前ご紹介したバナナの叩き売り、バナチャン節は、たんなる伝統芸ではなく実際に存在したということです。
啖呵売は、相撲甚句のように、とおる声でこれを唱うのです。
生まれは台湾台中の、阿里山麓の片田舎。
土人の娘に、み染められ、蝶よ花よと育てられ、
ほんのり、お色気着いた頃、国定忠治じゃないけれど、
ひと房ふた房もぎ取られ、唐丸籠に入れられて、
阿里山麓を後にして、ガタゴト列車にゆり揺られ、
着いたところが基隆(キールン)港。
キールン港を船出して、金波銀波の波越えて、海原遠い船の旅。
艱難辛苦の暁に、ようやく着いた門司港。
門司は九州の大都会。仲仕の声も勇ましく、
エンヤラドッコイ掛け声で、問屋の室に入れられて
夏は氷で冷やされて、冬はタドンでうむされて
83度の高熱で、黄色くお色気ついた頃、
バナナ市場に持ち出され、一房ナンボのたたき売り、
さあさあ、買うた、さあ買うた、ワシのバナちゃん600円
ところが、戦争が始まったことで輸送力がとられ、台湾バナナの移入が止まってしまいました。
それが「輸入」として再開されたのは1947年といいます。
最初はアメリカ軍用でしたが、1950年に民間貿易が正式に許されるようになりました。
もちろん、最初からたくさん輸入されたわけではないので、バナナは高級品だったわけです。
バナナの輸入権利を得ようと、多くの業者がバナナ市場に集まったといいます。
金で浮世がすむのなら
600高けりゃ、ゴンパチ(580円)だ。
権八ゃ昔の色男。それに惚れたが小紫
ゴンパチ高けりゃ、ゴンゴー(550円)だ。
ゴーンゴーンは鐘の音。
鎌倉名物鐘なれど、カネで浮世が済むのなら
奥州仙台伊達公に、なぜに高雄が惚れなんだ……
とまあ、こうやってだんだん値段が下がっていくのです。
バナナの叩き売りは次第に値が下がっていきますが、バナナの市場価格自体が普及とともに下がっていくわけです。
その背景には、1963年にバナナが輸入自由化されたことがあります。
その後清水信次氏は、業界の秩序統制を行うための組合を作り、バナナは1972年には、輸入量が106万トンになったといいます。
バナナの歴史。興味が尽きません。